三宅島・雄山の噴火で火砕流の被害にあった神着地区にあるペンション、SNAPPERSを (スナッパース)ご主人と経営されている、みゃること
野田理恵
(のだりえ)さん。 ペンションが火砕流に直撃されるという予期せぬ災害にあって、その状況を冷静に インターネットで発信し続けたみゃるさんに、雄山での出来事を綴っていただきます。
35-1 長い一日は続く
美茂井の都道を、子供達を乗せたバスが通り過ぎていったであろう頃、主人が外に出て、家の状況を確かめ始めた。
強い日差しと乾いた風で、ドロドロに粘る降灰は場所によっては乾いて、表面にひび割れができはじめていた。
裏にスパイクのついていない、普通の黒いゴム長靴を履いて、乾いていそうな場所を選んで歩けば、なんとか外に出られるようになった。
といっても、家の周りだけ、都道まではとても無理だろう。
停電が続いている。いつ頃復旧するのかわからない。
もしかしたら、今日中は無理かもしれない。テレビがないのは、不安だ。
自分達がいったいどういう状況にいるのか、全くわからない。
庭の車は、ドアを開けることさえ不可能な状態になっていた。
コンクリで固めたようになっている。
タイヤもホイールの部分まで灰に埋まっている。
部屋から見える、村道に立っている電話線の電柱が、微妙に傾いている。
どうも、線が引っ張られているらしい。
この電柱が倒れてしまったら、もう、終わりだ。
今、頼りになるのは、電話だけ。
電話での情報だけが、自分がどのような状況下にいるのかを知ることができる全てになってしまった。
逆に、こちらの状況を伝えられるのも、電柱が倒れる前までだ。
それまでに、あちこちに必死で電話をする。
このままでは、避難の号令がかかっても、家から出られない。
都道の大きな電線がダメになっていて、電気が止まったならば、じきに水道も止まるだろう。
電話線が切れてしまう前に、何か1つでも、外界との繋がりを確保しておかなければ。
できることなら、都道まで車が出せる道を、確保してもらいたい。
このままでは、何が起きても、どんな状況になっても、避難ができない。
ネチャネチャになっているか、がっちり重く固まっているかの
どちらかになってしまった灰は、人の力では、どうにもならなかった。
すっかり昼間になった外に出て、家の前の村道を、下根崎の方に歩いてみようと思った。深い意味もなく、ただの思いつきだった。
濃い灰色のモルタルをしっかり吹き付けたような木々が続く。
地面も下草も山側の石垣も、何もかもが、その木々と同じ色、同じ調子で塗り潰されている。他に見える色といえば、塗り固められて、倒れかけた木の梢からのぞく空の青と、灰の重さにしなりきることができずに折れたり裂けたりしてできた木の枝や幹の断面の生木の色だけだ。
木々は、倒れ、あるいは、折れ、村道を道と呼べない状態にした。
吹き付けて固まった灰の重さに耐えている木々も、限界までしなって、上空を低く覆っている。細い枝々の先端まで灰がついている様子は、有刺鉄線が錆びて膨らんで泥が付いたよう。
それをうまく、よけて、ぬって、くぐって、行ける所まで行ってみる。
見慣れてくれば、モルタルでできたオブジェと思えなくもない。
途中、ぽっかり空間ができていた。海側に降りる分かれ道があるところだ。
ずいぶん苦労したのに、たったこれだけしか進めない。
ふと、その、T字路があったためにできたと思われる空間の、海側に、これまでに、見ない形の物が落ちていることに気がついた。
もちろん、それは、灰まみれで固まっていて、周りの色と同じ色になっているけれども、木や草ではない。
灰の上にのっているように見えた。
他に見える全てのように、降灰に埋まったり、覆われたり、という様子とは違った。
見える限り、同じトーンで変わり果てた景色の中で、はっきり、不自然だった。
大きなたわし?タオル?
そばに寄って見た。人間が使う物が、こんな所に落ちているのは変だ。
灰が大降りしている中、誰かがここにいたのだろうか。
その人の落とし物なのか?そうだったら、大変だ。
でも、ここまで、人がいたような跡には、気がつかなかった。
何より、まず、自分がたてる以外の音は、何も聞こえなかった。
その物をつまみ上げてみた。変に重い。重すぎて、初めに入れていた力では持ち上がらなかった。持ち上げてみると、やはり、でも、妙なことに灰に埋まっていたわけではなく、その重さで少しめり込んでいただけのようだった。
雨と灰をずっしり吸ったタオル、だと思った。でも、なんとなく形が変だ。
灰にまみれると、こんなにしっかりする物なのか?
重力に逆らって、突っ張っている部分がある。しかも、部分的に。
何かが変だ。布のしなやかさがない。持った部分の堅さがおかしい。
つまみ上げたことによって、灰の固まりが落ちた部分の手触りも。
左手でつまんだまま、持ち上げて近づけて、よく見てみた。
変な形でこちら側に曲がっている先から、透明で茶色がかった黄色い水が、光を反射しながら、私の足の近くの地面に、糸を引いて垂れた。
その水の出てきたあたりを、不思議に思ってジッと見た。
見れば見るほど、タオルではないことがわかる。
が、いくら見ても、自分の記憶のなかから、この物体の元の姿に該当するものが出てこない。わかるために、必死になってしまった。
元の姿がうかがえそうな灰が薄いところを凝視した。
イタチだ。水が出ているのは、イタチの口だった。
ほとんど灰にまみれているけれど、肉色の口と、歯が。
それに気がつくと、口の脇に鼻があることも見えた。
白くて薄い桃色の、口から鼻にかけての割れ目だ。
そして、灰にまみれてた中に、半分開いた瞼と、ツヤのない目。
半開きの灰まみれの目は、私は映っていないけれど、こちらを見ている。目があったように感じた。
こんなによく見なければわからなかった。
なのに、わかってしまうと、意識が集中してしまった。
灰にまみれているけれど、口と、眼。半分降りた瞼。
全身の血が下がっていく。
死体を離そうと思うのに、左手はいうことを聞かない。
目を離そうと思うのに、死んだ眼から目をそらすことができない。
「離せ。」「どこへ?」「放り投げるの?」「離せ。」
「死んでいるんだから。」「ここに置くの?」「どうするの?」
頭の中で、いろんな言葉が響く。軽くつまんだはずの左手は、イタチの尻尾か脚か、どちらかの部分を握りしめてしまっていた。
パニックになっている頭の中の別の所で、昔、友人が話していた言葉が浮かんだ。「電線とかに触って感電する人はね、最初に手のひら側で触るから、だめなんだ。手のひら側で触ると、ショックがきたとき、人は手を握りしめちゃうから、しっかり感電しちゃうんだよ。」
それと同じ事なんだろうか。持ち上げたイタチを中心に、景色が歪む。
寒くて、歯が震える。胃から、泡のような、空気のような、声のような、何かが逆流してくる。足元から、ちょうど、タラーッと垂れた水が地面についたあたりから、真っ暗な闇が立ち上ってきて、
顔のあたりまで包み、銀色の光の筋が目の前を何本か横切る。
どうやって移動したのかわからないが、T字路の反対側の角あたりに来た。
木が覆いかぶさっている中に入って、長靴をはいたまま、横すわりのような格好で座り込んだ。息を吸っているのに、息苦しい。胃ごと戻ってきそうな、強い吐き気がする。舌の奥まで、飲み込んでも飲み込んでも、唾液があふれかえる。
イタチは、どこに置いてきたのだろう、
それとも放り投げてしまったのだろうか。
吐き気が収まったときに、左手にはなかった。
右手も左手も、真っ白で、爪はどす黒い紫になっている。
左手は、指が曲がったまま硬くなっている。
私は、寒さを感じたり、精神的にショックなことがあると、こうなってしまうけれど、両手いっぺんに、ここまでひどくなるのは初めてだ。感覚が戻らない手のひらを、足元の灰にこすりつけた。
お腹が痛いような、寒気がするような、脳みそが腫れ上がるようないろんな感覚が少しずつ収まってきた。
これが、パニックというのだろうか。
正気に戻るにつれ、今起きたことが、なんだったのか、わからなくなった。
イタチは、私が、見た物、触った物は、本当のことだったのだろうか。
落ち着くに従って、自分が「あれ」をどうしたのかわからないことが気になった。「あれ」をもう一度確認しなくては、本当のことだったのか、幻だったのか、わからない。本当にイタチだったのか、もしかしたら、猫ではないか、とか、いろいろなことが気になりだした。
けれど、もう一度探す勇気がなかった。あの、半開きの目が怖かった。
灰にまみれているのに、そこだけなぜか塗り込められていない、半分の瞼が恐ろしかった。
(野田理恵)