| ■「三宅島に渡って」 |
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私が子どもの頃、我が家の家族旅行はいつも海のそばだった。
父親が釣りをしたい場所が、その時の行き先になっていた。
父はある時、伊豆七島に注目した。石鯛を求めて。
大島も八丈島も行ったけれど、一番多く訪れたのが、三宅島だった。
かすかな記憶にある、黒い岩場と潮のプール。そして、魚たち。
あれから15年近く経って、私は、再び三宅島に接することになった。
あの頃とは違う立場で、違う状況を目の前にして感じたことを、ここに記します。 |
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今、私は雑誌の編集という仕事をしている。
広告代理業を生業とする会社の中にある小さな編集部。
今年の4月、編集長が「次号で三宅島を特集する」と提案した。
昔の記憶と、ここ2年ほど新聞紙上で見てきた噴火報道が頭の中に湧き出てきて、私はすかさず、「担当したいです」と答えていた。
三宅島の現状をレポートするだけにとどまらない誌面にしようと、考えながら。
24ページ分の誌面に、大きく3つのパートを作った。
一つ目は、今の三宅島を自分の目で見ること。
二つ目は、島民の方々に生の声を聞くこと。
三つ目は、これからの三宅島のために何ができるかを考えること。
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まずは、見なければ始まらない、という思いが募り、島に住民票のある知人を頼って、日帰り帰島の中に交じらせてもらった。夜の竹芝桟橋に続々と集まってくる島民たち。事前情報で、ヘルメット着用、ガスマスク常備…と聞いていた私がむしろシリアスすぎるのかしら、と感じるような、明るい顔が並ぶ。船に乗って、さらにその思いは増した。日帰り帰島に使われている船は、三宅が噴火する前、観光客が利用していたものだった。それ故、自動販売機ではビールが売られ、食堂も機能していた。そして、船内の通路では、久しぶりの再会ということもあり、酒を酌み交わす光景もみられた。とはいえ、その酒は、いつ帰れるかもしれないという不安と共に…なのだろう。
朝起きると、目の前に淡い光に包まれた島が現れた。上陸だ。島内では、役場の人にお世話になった。車での移動。すれ違う車の多くは、土木関係の作業車。パトカーや消防車も行き交う。島民は帰れない、でも、来たる帰島の日のために、働く人の姿がそこにはあった。
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移動していくと、一見普通に見える風景の中に、自然の脅威を感じさせるポイントが出現する。大きくひび割れた道路や土石流の流れ出た跡。有名な椎取神社の鳥居は、もう少しで姿が見えなくなってしまうほどだ。地形的に谷になっているこの場所には、雨が降ると未だに火山灰が集まってきて、その堆積が進んでいるそうである。その一方で、風景に溶け込んでいないものもある。その最たるものが土のうだ。道端に積まれた土のうは、高さ1メートルほど。それが2段に重ねられ、ナンバリングされている。聞けば、中身は火山灰。
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しかも、全島避難指示が出されるまでの2ヵ月に、島民の方々が自力で詰めたものだという。島民の4割近くが高齢者のこの島で、それがどれほど過酷な作業であったか、想像を絶してしまう。
島に上陸してしばらく経って初めて気づいたこともあった。それがガスの被害。木が枯れている。台風の被害のような明らかな折れ方とも違い、冬の落葉樹林とも違う、静かな枯れ方。ガスと灰の影響をじんわりと受けた木々。被害は、島の南東側の三池地区が大きいようだ。
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しかし、木々の中には芽吹いているものもある、でも、まだまだ再生への道のりは長そうだ。もう一つは、道端のコンクリート壁や電柱。なんと、オレンジ色なのだ。グレーをオレンジ色に変えてしまうほどの有毒ガス。島に人が帰れない理由の筆頭がこのガスだと、後々村長からも伺った、それである。村長は、「三宅の人は、ガスと共生しなければならないんです」ともおっしゃっていた。しかし、目に見えない“ガス”に対する不安が募ることのストレスは、相当なものになるに違いない。 |
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こうして、正味6時間ほどの滞在は終わった。再び船に乗ると、山手線一週ほどの小さな島は、あっという間に見えなくなった。島の周囲には、素晴らしくきれいな海が広がっていた。間違いなく、魚たちが悠々と泳いでいる海が。
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島を訪れたのち、私は複数の島民の方に直接お会いして話を聞いた。口をついてでてくる「いつ帰れるか分からないけれど、帰りたい」という期待。そんな中、ある島民の方から「いい経験をさせてもらったと、前向きに考えたい」という頼もしいコトバを聞いて、逆に私が勇気づけられたりもした。
ジャック・モイヤーさんにもお会いした。三宅島の自然に魅せられ、島に住みついたアメリカ人海洋生物学者。自然と人間を結ぶスペシャリストである彼は、「都会での避難生活という体験を通じて、三宅の自然の素晴らしさを知って欲しい。それを知れば、自然を守りながらの復興プランを考えられるようになる」と話してくれた。
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編集者という立場で、噴火した三宅島と全島避難を経験した島民方々、それを支える多くの人に接し、正直、自分の無力を感じた。今の三宅島に必要なのが、人出とか、お金とか、かなり直接的なものであることは否めない。ただ、微力でも個々人にできることはあると感じたのも、また事実だ。私は、「三宅島の今とこれから」をより多くの人に知ってもらうための記事を書くことが役目だと感じているし、社内のクリエーター達は、それをアピールするための手段として、無償で「広告」を作ってくれた。
どんな事故や災害に遭遇しても、生きている限り明日は来る。
現状を前向きにとらえよう。三宅に関わって、そんなことを考えた。
詳しくは、『広告』(6・7月号)をご覧ください。http://www.kohkoku.jpで購読もできます。
プロフィール
間部奈帆(まなべなほ)
株式会社博報堂社員。
雑誌「広告」の三宅島記事編集担当として
島に渡る。
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