4月21日 第4回三宅島島民ふれあい集会体育館プログラム配布資料
三宅島の火山活動一その現状と見通し
東京都防災専門員 笹井洋一 2002.04.21
1.はじめに
2000年6月26日夕方、雄山直下の火山性地震で幕を開けた三宅島の火山活動から、もうすぐ2年になろうとしています。島民の皆さん3800人が島から避難して、20ヶ月目に入りました。帰島できる日に備えて、島では復旧作業が懸命に続けられています。「いつ帰れるのか?」、「島に帰っても火山ガスは大丈夫か?」、「また噴火で島から逃げなくてはいけないのでは?」−皆さんの悩みはつきず、また火山研究者がそれらの疑問に対して明快な答えは出せないのが現状です。しかし確かに起こった出来事は「前代未聞」でしたが、今回の火山活動はどういう仕組みで起こったのかを知れば、将来の火山活動についてもある程度の目安がつくはずです。2000年9月頃には、次から次へと起こる予想外の出来事を前に、火山研究者の間でさえ「何が起こってもおかしくない」という言葉が飛び交いました。あれから1年半を経て、起こった出来事を冷静に見つめなおすことが出来るようになっています。ここでは将来の予測をする上で必要な、「三宅島2000年火山活動で何が起こったか」をまとめてみました。
2.2000年噴火での3大イベント
三宅島火山の2000年から現在までの活動は、大きく分けて3つの出来事(イベント)で特微づけられます。それは(1)6月26日夜、山頂を目指したマグマが、島の西側地下に貫入し(海底噴火)、神津・式根・新島付近の大規模群発活動を誘発した。(2)7月8日に山頂陥没、それ以降陥没孔が拡大し、2500年前のハ丁平カルデラを再現した。(3)8月18日、29日の大噴火、それ以降大量の火山ガス放出が現在まで続く。この3つのイベントはいずれも最近の噴火活動では起こらなかったものであり、将来の予測を難しくしています。しかし三宅島火山の過去を振り返り、あるいは世界の他の火山を参考にすると、それなりに今後の予想を立てられることが分ります。
3.天保6年(1835年)の噴火
先ず(1)のマグマ貫入事件ですが、江戸時代末期の1835年11月10日(天保6年9月20日)に始まった、今回と良く似た活動があります。雄山の西側山頂近くで起こった割れ目噴火で、笠地観音付近に流れ下った溶岩流や火山灰を出しましたが、10日間位激しい地震が続き、伊ケ谷の村人は伊豆へ避難した、とあります。注目すべきは「伊ケ谷、阿古の村内に幅1m以下の割れ目が所々に形成され、湯波(大鼻から夕景浜あたりを指す)に温泉が湧いた」ことと、「翌1836年3月31日から数日激しい地震が起こり、江戸でも有感であったが、これぱ三宅ではなく新島あたりの地震かも知れない(新島で石垣が崩れた)」など、今回のイベントとよく似た記録が残されています。西海岸付近に地割れ、温泉の異常があったことは、マグマが西方の海底に向けても貫入したことを想像させます。
4.山頂陥没孔は八丁平カルデラの再現
7月8日に山頂で爆発が起こり、直径9O0m、深さ2O0mの陥没孔が出来ました。この陥没孔は急激に大きくなり、8月末までに直径1.5km、深さ5O0mにまで成長しました。火山で生じるこのような陥没地形をカルデラと呼びます。山頂の陥没孔は約2500年前に出来たハ丁平カルデラをほぼ再現したものになっています。しかしハ丁平カルデラが出来た時には、大量の火山灰や溶岩を噴出する大規模な噴火が起こっています。地中のマグマが放出されて空洞が出来たため、その分だけ山頂が落ち込んだと考えられます。2000年活動が特異なのは、8月18日と29日の大噴火はありましたが、山頂にできた新しいカルデラの体積(6億立方メートル)は、総噴出量(1100万立方メートル)の数10倍あることです。山頂に出来た穴の体積とほぼ同じ量のマグマが北西方向に移動してしまったため、と推定されています。
神津島・新島方面の群発地震は、6月27日の伊ケ谷沖小規模海底噴火の後に活発となりました。震源は三宅島から神津・新島方面へ帯状に分布し、神津島と式根島の間は1m以上も間きました。マグマがこの付近に板状に貫入したためです。しかしこのマグマは三宅の地下から直接行ったものではありません。新島・神津島の火山を作っているのは流紋岩質マグマで、玄武岩質の三宅島のそれとは非常に違っています。今回の群発地震域にもともと流紋岩質マグマの溜りがあり、三宅島の火山活動の刺激を受けてマグマの中で発泡が起こり、地上へ上昇しようとしたと考えられます。ただしこのマグマ上昇で生じた空隙が、三宅島のマグマを吸い出す効果をもたらした可能性が大きいと思います。
体育館プログラムの様子